2009年 02月 19日
老いと介護 |
昨日のNHKの「クローズアップ現代」で綾小路きみまろが取り上げられていた。生放送のスタジオ・ゲストは毒蝮三太夫。テーマは「お笑い」ではなく、「老い」である。一昨日はオーストラリアでの認知症に対するケアについて。日本の認知症に対する考え方とあまりに違っていることに驚いた。
基本は最近「老い」に対する考え方が変わってきたというものだったが、「老い」や「介護」の常識と言われていたものを見直さなければいけない、というのがテーマだと思う。
私の母親は認知症で、2か月前にグループホームに入った。3年前に父親が亡くなってから認知症を発症したようだと言われているけれど、実際は父親を看病している頃から症状は出ていたように思う。兄夫婦の助けを得ながら2年近く一人暮らしをしていた母親だが、昨年末にちょうど面接に来てくれたグループホームに空きが出て、入ることができたもので、実際私はほっとしたのだった。先月会いに行ったとき、母は私に会うなり抱きついておいおい泣き始めた。ホームに入って(母はホテルに滞在していると思っている)、もう一人暮らしをしなくて済む安堵感は母自身も実際に感じていたようだが、それでも住み慣れた家を離れている寂しさも何となく感じていたのかとも思う。
ご多分にもれず、私がいる間も「じゃ、そろそろ帰ろうか」という。義姉が言うには一日一回は荷物をまとめて帰る準備をしているという。そのたびに、冬の間だけでもいさせてもらったら?と説得し、母も古くて寒い家に一人で帰るのはやっぱり心細いようで、「じゃ、そうするか」と荷物を解く。
母はそれこそ1分おきに同じことを言う。自分の中で気になる「マイブーム」があるようで、その「気になること」をとにかく単発おかずに口にする。自分がいる部屋を以前父親が休憩に使っていた部屋だと信じて疑わない。母を見ていて、「恐るべし認知症」と思った。人間の脳って、普段は存在していることも忘れがちだけれど、どれだけ活発に動いているんだろうと考えさせられた。そして脳が動かなくなることが人間にとってどれだけ致命的かということも。
私が常々気になっていることが、日本人はその認知症の症状を「ボケ」と表現することだった。「ボケが始まった」、「ボケが進んだ」、そして「年寄りだからしょうがない」、と片付ける。あれは「ボケ」ではない。風邪を引いて喉が痛んだり、熱が出たりすると同じ、病気の症状なのだ。確かにアルツハイマー病と違って、高齢になることが症状の原因となることもあるけれど、それであってもボケではなく、症状だ。日本語のネーミングもよくない。「痴ほう症」は最悪だけれども「認知症」も実はよくわからない。さらに言わせてもらうと、「障害者」という言葉も好きではない。
かくいう私も、母親のことを以前から認知症になりそうだよね、などと言っていたことを恥ずかしく思う。原因はまだ解明されていないのだ。
オーストラリアの認知症患者は、実に生き生きと生活していた。適切なケアを受けている、とはっきりと見て取れた。以前問題になっていた、徘徊するお年寄りをベッドに縛り付けるような施設はさすがにもうないだろうけど(いや、あるかもしれませんね)、日本の高齢者に対するケアはまだまだ場当たり的で、高齢者の立場に立ったものではないと、残念ながら思わざるを得ない。
昨日のクローズアップ現代では、日本の「介護の常識」を見直す介護をしている施設が紹介されていた。寝た切りの高齢者におむつは当たり前だったのが、できるだけトイレに連れて行って用を足すようにする、介護用の入浴(寝たままお風呂に入れる)設備を使うのをやめ、介助者とともにできるだけ普通にお風呂に入るようにする。動けない患者にチューブで食事を与えていたのをやめて、スプーンで口から食べられるようにする。実際に働く人たちの負担は相当に大きくなると思うが、その施設では寝たきりのお年寄りが格段に減ったそうだ。こういった施設がどんどん増え、働く方たちのモチベーションが下がらないシステムを国、もしくは行政が考え、積極的に支援し(それが重要)、長年生き抜いてきたお年寄りを年寄り扱いするのではなく、尊厳を保てるケアができる、そんな日本になってほしい。
さらに長くなって申し訳ありませんが、一昨日、昨日のクローズアップ現代の要旨をホームページから引用させていただきます。
広がるか 認知症
“本人が決めるケア”
増加する認知症の人に対し、今世界中で「パーソン・センタード・ケア(本人中心ケア)」が注目を集めている。本人の意志を最優先して医療や介護を進めるケア方法である。背景にあるのは、認知症の早期診断技術の向上。年若く、意識や体力が十分に残っている段階で認知症と診断される人が増えたことで、「何も分からない、心が失われる」とされてきた認知症の“常識”が変わったのだ。先進地オーストラリアでは、認知症の本人が症状の詳しい説明を受け、できる範囲で治療や介護方針の決定にも参加できる体制が整いつつある。日常的なケアも、本人の話をじっくり聞くことから始まり、カウンセリングや介護の専門家がサポートする。これに対し、日本では取組みが始まっているものの、専門人材の不足やコストなどが壁になり、ごく一部に止まっている。認知症と早期診断された多くの患者が行き場を失っているのが現状だ。日本とオーストラリアの現場から、認知症ケアの新潮流の行方をさぐる。
(NO.2699)
変わる老いの“常識”
「1つ覚えて3つ忘れる中高年」「日本はジジババの養殖場」。中高年をネタにした毒舌漫談で綾小路きみまろさんが人気だ。ファンの多くはギャグにされる中高年。CDは記録的ミリオンセラー、ライブはいつも超満員になる。"介護界のきみまろ"、理学療法士・三好春樹さんが介護従事者を対象に行う講演も大人気。「人は老いると頑固さを増し、スケベさを増す」として、肩の力を抜いた介護の実践を説いている。さらに、若者主体のファーストフード店では若者と同じシフトで働く老人が活躍。また、長寿には体の健康より脳の活性化が大きく影響するという研究結果も出ている。変わりつつある"老い"への向き合い方。中高年のカリスマたちの人気の秘密を追いながら、超高齢化社会を生き抜くヒントを探る。
(NO.2700)
このテーマに関しては今後も時々書いていくことになると思う。
基本は最近「老い」に対する考え方が変わってきたというものだったが、「老い」や「介護」の常識と言われていたものを見直さなければいけない、というのがテーマだと思う。
私の母親は認知症で、2か月前にグループホームに入った。3年前に父親が亡くなってから認知症を発症したようだと言われているけれど、実際は父親を看病している頃から症状は出ていたように思う。兄夫婦の助けを得ながら2年近く一人暮らしをしていた母親だが、昨年末にちょうど面接に来てくれたグループホームに空きが出て、入ることができたもので、実際私はほっとしたのだった。先月会いに行ったとき、母は私に会うなり抱きついておいおい泣き始めた。ホームに入って(母はホテルに滞在していると思っている)、もう一人暮らしをしなくて済む安堵感は母自身も実際に感じていたようだが、それでも住み慣れた家を離れている寂しさも何となく感じていたのかとも思う。
ご多分にもれず、私がいる間も「じゃ、そろそろ帰ろうか」という。義姉が言うには一日一回は荷物をまとめて帰る準備をしているという。そのたびに、冬の間だけでもいさせてもらったら?と説得し、母も古くて寒い家に一人で帰るのはやっぱり心細いようで、「じゃ、そうするか」と荷物を解く。
母はそれこそ1分おきに同じことを言う。自分の中で気になる「マイブーム」があるようで、その「気になること」をとにかく単発おかずに口にする。自分がいる部屋を以前父親が休憩に使っていた部屋だと信じて疑わない。母を見ていて、「恐るべし認知症」と思った。人間の脳って、普段は存在していることも忘れがちだけれど、どれだけ活発に動いているんだろうと考えさせられた。そして脳が動かなくなることが人間にとってどれだけ致命的かということも。
私が常々気になっていることが、日本人はその認知症の症状を「ボケ」と表現することだった。「ボケが始まった」、「ボケが進んだ」、そして「年寄りだからしょうがない」、と片付ける。あれは「ボケ」ではない。風邪を引いて喉が痛んだり、熱が出たりすると同じ、病気の症状なのだ。確かにアルツハイマー病と違って、高齢になることが症状の原因となることもあるけれど、それであってもボケではなく、症状だ。日本語のネーミングもよくない。「痴ほう症」は最悪だけれども「認知症」も実はよくわからない。さらに言わせてもらうと、「障害者」という言葉も好きではない。
かくいう私も、母親のことを以前から認知症になりそうだよね、などと言っていたことを恥ずかしく思う。原因はまだ解明されていないのだ。
オーストラリアの認知症患者は、実に生き生きと生活していた。適切なケアを受けている、とはっきりと見て取れた。以前問題になっていた、徘徊するお年寄りをベッドに縛り付けるような施設はさすがにもうないだろうけど(いや、あるかもしれませんね)、日本の高齢者に対するケアはまだまだ場当たり的で、高齢者の立場に立ったものではないと、残念ながら思わざるを得ない。
昨日のクローズアップ現代では、日本の「介護の常識」を見直す介護をしている施設が紹介されていた。寝た切りの高齢者におむつは当たり前だったのが、できるだけトイレに連れて行って用を足すようにする、介護用の入浴(寝たままお風呂に入れる)設備を使うのをやめ、介助者とともにできるだけ普通にお風呂に入るようにする。動けない患者にチューブで食事を与えていたのをやめて、スプーンで口から食べられるようにする。実際に働く人たちの負担は相当に大きくなると思うが、その施設では寝たきりのお年寄りが格段に減ったそうだ。こういった施設がどんどん増え、働く方たちのモチベーションが下がらないシステムを国、もしくは行政が考え、積極的に支援し(それが重要)、長年生き抜いてきたお年寄りを年寄り扱いするのではなく、尊厳を保てるケアができる、そんな日本になってほしい。
さらに長くなって申し訳ありませんが、一昨日、昨日のクローズアップ現代の要旨をホームページから引用させていただきます。
広がるか 認知症
“本人が決めるケア”
増加する認知症の人に対し、今世界中で「パーソン・センタード・ケア(本人中心ケア)」が注目を集めている。本人の意志を最優先して医療や介護を進めるケア方法である。背景にあるのは、認知症の早期診断技術の向上。年若く、意識や体力が十分に残っている段階で認知症と診断される人が増えたことで、「何も分からない、心が失われる」とされてきた認知症の“常識”が変わったのだ。先進地オーストラリアでは、認知症の本人が症状の詳しい説明を受け、できる範囲で治療や介護方針の決定にも参加できる体制が整いつつある。日常的なケアも、本人の話をじっくり聞くことから始まり、カウンセリングや介護の専門家がサポートする。これに対し、日本では取組みが始まっているものの、専門人材の不足やコストなどが壁になり、ごく一部に止まっている。認知症と早期診断された多くの患者が行き場を失っているのが現状だ。日本とオーストラリアの現場から、認知症ケアの新潮流の行方をさぐる。
(NO.2699)
変わる老いの“常識”
「1つ覚えて3つ忘れる中高年」「日本はジジババの養殖場」。中高年をネタにした毒舌漫談で綾小路きみまろさんが人気だ。ファンの多くはギャグにされる中高年。CDは記録的ミリオンセラー、ライブはいつも超満員になる。"介護界のきみまろ"、理学療法士・三好春樹さんが介護従事者を対象に行う講演も大人気。「人は老いると頑固さを増し、スケベさを増す」として、肩の力を抜いた介護の実践を説いている。さらに、若者主体のファーストフード店では若者と同じシフトで働く老人が活躍。また、長寿には体の健康より脳の活性化が大きく影響するという研究結果も出ている。変わりつつある"老い"への向き合い方。中高年のカリスマたちの人気の秘密を追いながら、超高齢化社会を生き抜くヒントを探る。
(NO.2700)
このテーマに関しては今後も時々書いていくことになると思う。
by Treehouse-in-k
| 2009-02-19 20:58